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第8章 新しい時代

ビューッ!

 狂風が吹きすさび、暴雨が叩きつける。古めかしい3本マストのキャラック船は、一つまた一つと迫りくる波の「山」に翻弄されていた。それはあたかも、巨人同士のキャッチボールでグローブとグローブの間を行き来するボールのようだった。

アルジェ・ウィルソンが最後に目にした「深紅」はいつの間にか色褪せていて、気がつくと、アルジェはさっきと寸分違わぬ様子で甲板の上に立っていた。

 ふと我に返った瞬間、アルジェが手にしていた不思議な形のガラス瓶はパリンと音を立てて砕け散り、中の霜や雪が溶けて、雨粒に紛れていってしまった。

 わずか3秒ほどの間に、古くから伝わるこの奇妙な代物は、この世に存在していた痕跡を完全に失ってしまった。

 突然、六角形の雪の結晶がアルジェの手のひらに浮かび上がったかと思うと、すぐに薄くなり、見えなくなった。まるで、アルジェの血となり肉となるために吸収されていったかのように。

 アルジェは何かを考えているかのようにわずかにうなずきながら、5分ほど沈黙していた。

 そしてくるりと向きを変え、船室の入り口にやってきた。アルジェが中に入ろうとしたその時、同じ雷模様の刺繍の入ったローブを着た男が出てきた。

 柔らかそうな金髪をなびかせた男は足を止め、アルジェのほうに向き直ると、右手をさっと上げ、握りこぶしにして左胸に当てると言った。

 「嵐は汝と共に在る。」

 「嵐は汝と共に在る。」アルジェは野性味あふれる彫りの深い顔に何の感情も浮かべず、同じように右手を握りこぶしにして左胸に当てた。

 お決まりの挨拶を交わすと、アルジェは船室に入り、通路を通って、一番奥の船長室へと向かった。

 その間、誰にも出くわさなかった。船内は墓場のように静まり返っていた。

 船長室のドアを開けると、こげ茶色のふかふかの絨毯が目に入った。ドアの両側は本棚とワインセラーになっていて、ずらりと並んだ黄ばんだ革の表紙の書籍とボルドー色のワインが、蝋燭の光に照らされ、異様な光沢を放っていた。

 蝋燭の灯されたデスクの上には、インクボトルが一つと、羽根ペンが1本、黒い金属の望遠鏡、それに真鍮でできた六分儀が置かれていた。

 デスクの向こう側では、ドクロマークのついた海賊帽をかぶり、青ざめた顔をした中年の男が、一歩一歩近づいてくるアルジェを睨みつけ、怒りと悔しさをぶちまけるように言った。

 「お前になど屈するものか!」

 「そうだといいですね。」アルジェは、まるで明日は晴れるといいですねとでも言うように平然とした口調で言った。

 「貴様……」中年男は、予期せぬ回答に一瞬たじろいだ。

 その隙に、アルジェは体をわずかにかがめ、いきなり男のほうに突進していった。2人は瞬く間にデスクを挟んで向かい合うほど近づいた。

 バシッ!

 アルジェは肩に力を込め、ものすごい勢いで右手を突き出すと、中年男の喉元をわしづかみにした。

 相手は反応する間もなかった。アルジェの手の甲に無数の鱗のようなものが現れ、5本の指に凶暴な力が込められた。

 パキン!

 何かが折れたような音がし、中年男の目に驚愕の色が宿った。男の体は持ち上げられ、宙に浮いていた。

 中年男は両足を懸命にバタつかせたが、すぐに大人しくなった。男は焦点の定まらない目つきになった後、瞳孔が開き、ズボンの股のところが濡れてきて、悪臭を放った。

 アルジェは中年男を肩に担ぐと、壁のほうにずかずかと歩いていった。

 バン!アルジェは中年男を盾にし、力いっぱい壁にぶつかっていった。彼の腕は怪物のように太かった。

 木の壁は音を立てて壊れ、豪雨と暴風が、生臭い潮のにおいを伴って吹き込んできた。

 アルジェは背負投げの要領で、山のように巨大な波の中に中年男を放り込んだ。

 空は真っ暗で、嵐が荒れ狂っていた。自然の力はすべてを飲み込んでいった。

 アルジェは白いハンカチを取り出して、右手を丁寧に拭うと、それも海に投げ捨てた。

 そして数歩下がったところで、仲間が入ってくるのをじっと待った。

 「何事だ?」10秒もしないうちに、さっきの柔らかそうな金髪の男が飛んできた。

 「『船長』が逃げた。」アルジェはあえぎながら悔しそうに言った。「まだ超越的な力を温存していたようだ。」

 「あの野郎!」金髪の男は小さな声で罵った。

 金髪の男は壊れた壁のところに来ると、目を凝らして遠くを見やった。だが、嵐と大波のほかは何も見えなかった。

 「仕方ない。ヤツは単なるおまけだ。」金髪の男は肩をすくめて腕を振った。「チューダー時代の幽霊船を発見しただけでも、俺達はお手柄ってもんさ。」

 こんな荒れた天候では、たとえ海の眷者であっても、金髪の男ですら海に入るのはためらわれた。

 「それに、こんな嵐が続けば、『船長』だって長くは持つまい。」アルジェはうなずくと、木の壁が肉眼でも見える速さで、うねうねと元に戻っていくのに気づいた。

 アルジェはその様子をじっくり眺め、思わず後ろを振り向き、舵と帆のある方を見やった。

 操縦室との間は何枚もの木の板で隔てられていたが、アルジェにはその様子をはっきりと想像することができた。

 一等航海士も二等航海士も、船員も水夫もいない。生きているものは誰もいない!

操縦室の中は空っぽなのだ。舵も帆も、奇妙なことに自ら動き調整しているのだ!

 再び、全身が灰色の霧に覆われたあの「愚者」のことを思い出した。アルジェはため息をつくと、外の荒れ狂った巨大な波を見つめ、期待と恐れの入り混じった口調で、寝言のようにつぶやいた。

「新しい時代の始まりだ……」

 …………

 ルーン王国の首都ベークランド市、クイーン区。

 オードリー・ホールは、さっきの出来事が信じられない、というように、自分の顔を懸命につねっていた。

 目の前のドレッサーの上には、バラバラに砕けた古い銅製の鏡があった。

 ふと手の甲に目をやると、「深紅」が、星の「タトゥー」のようにくるくる回っているのが見えた。

 「深紅」は次第に暗くなり、最後は皮膚の下に隠れるように消えて見えなくなってしまった。

 それを見て、オードリーはさっきのが夢ではなかったと確信した。

 瞳の中で視線が踊る。口角が次第に上がっていき、いても立ってもいられず立ち上がると、軽く膝を曲げ、スカートの裾を持ち上げた。

虚空に向かって一礼すると、オードリーは足取り軽く回りだし、当時宮廷で大流行していた「古精霊の舞い」を踊り出した。

美しい身のこなし。顔には、極上の笑顔が輝いていた。

ドンドンドン!突然、寝室のドアがノックされた。

「誰?」オードリーは踊りを止め、優雅な姿勢を作った。

「お嬢様、入ってもよろしいでしょうか?そろそろお支度なさいませんと。」身の回りの世話をする侍女が、ドアの向こうで尋ねた。

オードリーは、横を向いてドレッサーの鏡を見ると、さっと笑顔を仕舞い、かすかに余韻だけを残した。

それからすべての身だしなみが整っていることを確認すると、穏やかに言った。

「入って。」

 ドアノブが動き、お世話係の侍女アニーが入ってきた。

「まあ、割れちゃったんですのね。」アニーはすぐに、例の古めかしい鏡の哀れな姿を発見した。

オードリーは焦ったように瞬きを繰り返し、ゆっくりと答えた。

「え、ああ、そうなのよ。この前スージーが入ってきたの。わかるでしょ、あの子ったらいたずら好きなんだから!」

スージーと言うのは、純とは言えない血統の、栗色の毛の大きな犬で、オードリーの父ホール伯爵がフォックスハウンドを買ったときにもらったおまけだった。それをオードリーが気に入ったと言うわけだ。

「きちんとしつけなければいけませんね。」アニーは、オードリーが怪我をしないよう、慣れた手つきで鏡のかけらを拾い集めた。

きれいに片付け終わると、アニーはオードリーに微笑みかけ尋ねた。

「どのドレスになさいます?」

オードリーは少し考えて言った。「ギニア夫人が私の17歳の誕生日のためにデザインしてくれたのがいいわ。」

「それはいけません。正式なパーティーに同じドレスを2度も着ていくなんて、ホール家が財政危機だと思われてしまいます!」アニーは首を振った。

「でも、私とても気に入っているのよ。」オードリーは優しい口調で辛抱強く言った。

「おうちでお召しになって下さいませ。もしくは、カジュアルな集まりでしたら問題ございません。」アニーは取り付く島もなかった。

「じゃあ、ミスター・サデスがこの前送ってくださったのにするわ。袖口がフリルになっているあれ。」オードリーは優雅で美しい微笑みを崩すまいと、こっそり深呼吸をした。

「さすがオードリー様、お目が高いですわ。」アニーは笑って後ろに下がると、廊下に向かって叫んだ。「第6クロークルーム、いいえ結構、自分で取りに行くわ。」

侍女たちが忙しくなった。1人はドレス係、1人はジュエリー係、1人は靴係、1人は帽子係、1人は化粧係、そして残りの1人は髪型を考えた。

もうすぐ準備が終わろうかという時、焦げ茶色のベストを身に付けたホール伯爵が、オードリーの部屋の入り口に現れた。

ホール伯爵は、服と同じ色のシルクハットをかぶり、2本の立派なカイゼル髭を蓄えていた。コバルトブルーの瞳はいつもニコニコ笑っていたが、たるんだ筋肉、出っ張った腹、遠目からでもわかるほうれい線などが、若かりし頃の精悍さを非情なまでに台無しにしていた。

「ベークランド一のまばゆい宝石よ、そろそろ出かけようではないか。」ホール伯爵はドアのところに立ち、開いているドアを軽く2度ノックした。

「パパったら、その呼び方はやめてって言ってるじゃない。」オードリーは侍女らに助けられて立ち上がり、わざと困ったような表情を作った。

「では、私の美しいお姫様、出かけようじゃないか。」ホール伯爵は左腕を曲げ、オードリーが腕を絡ませてくるのを待った。

オードリーは少しだけ笑って首を振った。

「それはホール夫人、つまり伯爵夫人である私の愛するお母様の場所よ。」

「では、こちら側で。」ホール伯爵は笑いをこらえながら右腕を曲げた。「これは父としての誇りだよ。」

…………

ピューリッツ港、オーク島、王室海軍基地。

オードリーは父親にエスコートされて馬車を降りた瞬間、目の前にそびえる、巨大な物体に圧倒された。

それほど遠くない軍港に、全身から金属の輝きを放つ巨大な戦艦が停泊していた。帆がなくなり、見張り台だけが残され、さらに2本の高い煙突が加わり、船体の前後には剥き出しの砲台まで設置されていた。

船はあまりにも雄大であまりにも巨大だったため、付近に停泊している戦列艦は、まるで生まれたばかりの小人が巨大な精霊を取り囲んでいるように見えた。

「尊き嵐よ……」

「おお、主よ。」

「装甲艦だ!」

……

 口々に驚きを表す声が低く交錯した。オードリーも同じように衝撃を受けた。これは人類がつくりだした奇跡、かつてない海洋の奇跡だわ!

 どれくらい経っただろうか。貴族、大臣、下院議員らがようやく落ち着きを取り戻したその時、空中の小さな黒い点がだんだん大きくなり、空の3分の1を占め、全ての人々の視線を独り占めにし、周囲の空気をいきなり厳かに変えた。

 それは、空を飛ぶ巨大な物体だった。極めてなめらかで優美な曲線、全体が濃いブルーに塗装されていて、堅牢で軽い合金の骨組みが、気嚢を包む木綿の布を支えていた。その下には、銃口、爆弾投下口、平射砲口がついたキャビンがぶら下がり、高燃素蒸気機関のグォングォンいう音と、尾部のプロペラのけたたましい回転音とが、人々の心を震わせる楽章を奏でていた。

 国王一家の乗った飛空艇が、全てを上から見下ろす威厳と共に到着した。

 縦に真っ直ぐ置かれ、ルビーの王冠の柄のついた「審判の剣」の徽章が、キャビンの両側で太陽の光を反射していた。これは前の紀元から受け継がれてきたアウグストゥス家のシンボルマークだった。

 オードリーはまだ18歳未満なため、「紹介の儀式」に参加したことはない。クイーンの紹介で正式にベークランドの社交界入りした暁に、晴れて成年と認められるしきたりなため、今は遠くから眺めることしかできず、近づいてはいけないのだ。

 だが、オードリーはあまり気にしてはいなかった。むしろ、王子らに会わなくていいため、気楽だった。

 人類が空を征服した「奇跡の証」は少しずつ着陸態勢に入った。最初にタラップから下りて来たのは、勇ましい姿の若い衛兵たちだった。赤い軍礼服に白い長ズボンを穿き、勲章をつけるサッシュをたすき掛けにし、手にはライフル銃を持っている。衛兵たちがサッと2列になり道を開けると、国王ジョージ3世と王妃、王子、王女が現れるのを静かに待っていた。

 オードリーは偉い人を見たことがないわけではないので、全く興味が沸かなかった。逆に国王の身辺で塑像のように身動き一つしない2人の黒い甲冑の騎士に目がいった。

 この鉄と蒸気と銃砲の時代に、いまだに全身甲冑を着ている人間がいるなんて!

 あの冷たい金属の輝きも、深く頭部を覆う黒い兜も、重厚で威厳があって、絶対服従しなきゃって思わせてくれるのよね!

 「まさかもっと序列が上の『懲戒の騎士』なんてのもいたりして……」オードリーの頭に、親戚の大人たちが話していた雑談の内容が断片的に浮かんだ。お知り合いになりたいと思ったが、なぜか恐れ多かった。

 国王一家が登場し、儀式はようやく始まった。現職の首相アグシッド・ニーガン卿が皆の前に進み出た。

 アグシッドは保守党員で、これまで貴族以外から首相に上り詰めたただ2人のうちの一人だ。その卓越した貢献により、卿の称号が与えられた。

 もちろんオードリーはそれ以上のことも知っている。アグシッドの兄は保守党の主力支持者で、パラス・ニーガンといい、一代貴族のニーガン公爵だ。

 アグシッドは50歳を少し超えていて、背は高く瘦せ型で、髪は薄く、鋭い眼差しで、ぐるりと見回してから話し始めた。

 「レディース・アンド・ジェントルメン、皆様も既にご覧になられましたように、これは装甲艦です。時代を覆すに足る装甲艦です。長さ101メートル、幅21メートル、乾舷が高く設計されており、主装甲帯の厚さは457ミリメートル、排水量は10060トンあり、前後に合計4基の305ミリメートル主砲が配置されています。他にも、速射砲が6基、6ポンド砲が12基、6連装機関銃が18基、魚雷発射管が4基備えられ、航行速度は16ノットに達します!」

 「これぞ真の覇者だ。大海原を征服するぞ!」

 貴族や大臣、議員らが騒ぎ出した。首相の説明だけでもこの装甲艦の威力を想像するのに十分だが、実物が目の前にあるならなおさらだ。

 アグシッドはわずかに笑顔を見せるとスピーチに戻り、それから国王ジョージ3世にお辞儀をして言った。

 「陛下、どうか命名を。」

 「ピューリッツ港から始まったのだから、ピューリッツ号と呼ぼうではないか。」ジョージ3世もかなりご満悦な様子だった。

 「ピューリッツ号!」

 「ピューリッツ号!」

 ……

 海軍大臣や王室海軍総司令からスタートし、集まった人々が次々と装甲艦の名を呼んで伝えていった。最後に口伝えのリレーが装甲艦に戻ってくると、軍官や士兵らが一斉に叫んだ。

 「ピューリッツ号!」

 軍港は祝賀ムード一色に包まれ、礼砲が響いた。ジョージ3世は起航と試射を命じた。

 ピーッ!

 汽笛が鳴り響くと、煙突から濃い煙がもくもくと吐き出され、機械の動く振動がうっすら伝わってきた。

 巨大な物体は動き始めた。軍港を出て、船首の主砲2基が前方にある無人島めがけて発砲したとき、誰もが度肝を抜かれた。

 ドーン!ドーン!ドーン!

 大地が揺れ、土ぼこりが空を埋め尽くし、つむじ風が海を殴りつけるように高波を起こしていった。

 アグシッド首相は満足げに貴族や大臣、議員らを見やって言った。

 「この瞬間から、例の将軍を自称する7人の海賊や、王を吹聴する4人の海賊は、最後の晩餐を震えて待つことしかできないでしょう!」

 「奴らの時代は終わりました。奴らに多少の超越的な力や幽霊や呪いの船などがあったところで、海を支配するのは装甲艦を置いて他にありません!」

 アグシッドの第一秘書はわざとこんな質問を投げかけた。

 「では、奴らも装甲艦を造ったらどうでしょう?」

 貴族や議員らの中には、こっそり頷く者もいた。その可能性だってあると思ったからだ。

 アグシッドはすぐさま笑みを浮かべ、ゆっくりと首を横に振りながら言った。

 「無理です。永遠に不可能ですね!このような装甲艦を造るには、3つの大型石炭鉄鋼共同体に、ある程度大規模な20の製鉄所、ベークランド火砲研究院とピューリッツ船舶研究院の科学者計60名とさらに多くのシニアエンジニア、2つの王室造船所とそれに付帯する約100の部品工場、海軍1つ、戦艦建造委員会1つ、内閣1つ、卓越した先見の明を持つ安定した国王と年間鉄鋼生産量1200万トンの偉大な国家が必要なのです!」

 「海賊なんかには永遠に不可能です。」

 ここまで話すと、アグシッドは両手を広げ、感極まったように叫んだ。

 「レディース・アンド・ジェントルメン!巨大戦艦と大砲の時代がやってきたのです!」