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第6章 超越者

同じルーン語、同じく重苦しく張りつめたような感覚。

 ここはどこだ? 俺は何をしているんだ? 俺だって知りたい……周明瑞は落ち着きを取り戻し、2人の質問を心の中で繰り返した。

 だが、周明瑞にとって最も印象的だったのは、単語が構成するフレーズでも、フレーズに込められた意味でもなく、目の前の男女の慌てる様子や警戒している様子、それに恐れと畏怖の表情だった。

 どういうわけだか2人をこの灰色の霧の世界に呼び込んでしまった、まあ言わば「加害者」な俺だって、この状況にうろたえ驚いているんだ。2人の恐怖はいかばかりか。

 2人にとっては、さぞかし想像を絶する出来事だろう。

 その瞬間、周明瑞は2つの選択肢を思いついた。1つは、自分も被害者であるフリをして正体を隠し、それと引き換えにある程度の信頼を得て、状況を静観しつつ、有利な方向にもっていく。もう1つは、2人にとって神秘的なイメージを保ちながら、コトの成り行きをリードしつつ、価値ある情報を得ていく。

 じっくり検討している暇はなかったが、周明瑞はせっかく浮かんだ考えを逃さず、2つ目を試してみることにした。 

相手の心理状態を利用し、できる限り有利な立場に立つのだ!

 灰色の霧の上はしばし沈黙に包まれた。周明瑞はふふっと笑うと、感情は込めない、小さいけれど聞き取りやすい声で言った。ちょうど店を訪れた客に挨拶するような感じで。 

 「物は試しだ。」 

 物は試し……物は試し? オードリー・ホールは灰色の霧をまとった不思議な男を見つめた。今起こっていることがあまりに荒唐無稽で可笑しくて恐ろしくて奇妙に思えた。 

 ついさっきまで寝室のドレッサーの前にいたのに、振り返った次の瞬間、こんな灰色の霧の世界に「来て」しまった。 

 一体全体どうなっているのかしら!? 

 オードリーは何かを振り切るように息を吸い込むと、一分の隙もない笑顔を見せ、おそるおそる尋ねた。

 「失礼だけど、その試しとやらは終わったのかしら?私たち、帰ってもよろしくて?」

 アルジェ・ウィルソンも同じように探りを入れてみたいと思ったが、人生経験が豊富なぶん、冷静にその衝動をこらえ、黙って成り行きを見ていた。

 周明瑞は声のしたほうに顔を向けた。ぼんやりとしたもや越しに、その人物のシルエットが透けて見えた。柔らかな金髪の、すらっと背の高い少女のようだったが、顔ははっきり見えなかった。

 周明瑞は少女の問いには答えず、もう1人の男のほうを見た。海藻のように乱れた深い藍色の髪に、中肉中背の体。屈強そうには見えなかった。

 その瞬間、周明瑞は突然悟った。自分がもっと力を持てば、あるいはこの灰色の霧の世界に対する理解がもっと深まれば、このもやを透視し、少女と男の顔をはっきり見ることができるに違いない。

 この件に関して、彼らは言わば「客演」。主役は俺だ!

 心持ちが変わった途端、さっきまで気が付かなかったことが目に入るようになった。

 美しい声の少女と冷静沈着で感情を表に出さない男のビジュアルは、幻覚のように全身がほんのり赤く染まっており、さながら灰色の霧に映った深紅の「星」の影のようだった。

 しかもその影は、自身と「星」との関係に基づいていて、目に見える形こそないが、しっかりと存在を確認できる関係だ。

 この関係を断ち切ってしまえば、影は消え去り、2人は元いた世界に戻ることができる……周明瑞はわずかにうなずくと、金髪の少女のほうを向き、小さく笑いかけた。

 「もちろんさ。君が望むなら、今すぐ帰してあげるとも。」

 悪意は含まれていないと判断したオードリーは、ほっとしたように息を吐いた。こんな摩訶不思議なことができるお方が約束してくれたんだもの、きっと守ってくれるはずだわ。

 平静さを取り戻してきたオードリーは、却ってすぐに帰りたいとは言わなかった。グリーンの瞳が、左右にきょろきょろ動き、爛々と輝いた。

 オードリーは期待に胸を膨らませ、ワクワクが止まらないとでもいうように言った。

 「でも、本当に奇妙な体験だわ……そう、私きっとこういう出来事を望んでいたような気がする。私は不思議なことや、自然を超越した奇跡が好き。あ、違うの。ええと、私が言いたいのは、どうすれば超越者になれるの?」

 話しながら、オードリーはどんどん興奮し、言っていることが支離滅裂になってきた。幼い頃、大人が不思議な物語を話して聞かせてくれたときに芽生えた夢が、ようやく叶いそうだったからだ。

 二言三言話すうちに、オードリーはさっき感じた恐怖などすっかり忘れ去っていた。

 いい質問だ! 俺だってその答えを知りたいさ……周明瑞は心の中でツッコミを入れた。

 さて、何と答えたら神秘的なイメージを保てるか。

 周明瑞はふと、こんなふうに立ったまま話をするのはいささか下品だと感じた。こういう場合、普通どーんと神殿が立っていて、長テーブルの周りにクラシカルな模様が彫られた雰囲気あるハイバックチェアがずらーっと並んでいて、そして俺がその上座にどかーっと座って、じろーっと客人をながめてるってのがセオリーじゃないのか?

 周明瑞がそんな想像をした途端、灰色の霧が突如うねりだし、オードリーとアルジェは肝をつぶした。

 次の瞬間、3人の周りには、見上げるほど高い石柱が取り囲んでいた。その上方は広大なドーム状の屋根で覆われていた。

 建物は荘厳で雄大で、神話に出てくる巨人の宮殿のようだった。

 ドームの真下の、灰色の霧が集まっているところには、ハイバックチェアが左右に10脚ずつ、上座と下座にも1脚ずつ並んだ青銅製の長テーブルが置いてあった。ハイバックチェアの背面はキラキラと輝いていて、深紅の星のような宝石が埋め込んであり、現実には存在しない不思議な星座を描いていた。

 オードリーとアルジェは、上座に一番近い席に向かい合って座っていた。

 オードリーは左右をきょろきょろ見回し、思わず小声でつぶやいた。

 「すごい、魔法みたい……」

 確かに魔法だな……周明瑞は右手を伸ばし、何食わぬ顔で青銅製の長テーブルのふちを小さくさすった。

 アルジェも周囲をぐるりと見渡したが、数秒ほど沈黙した後、突然口を開いて、周明瑞に代わってオードリーの質問に答えた。

 「あなたはルーン人ですね?」

 「超越者になりたければ、黒夜女神教会か、嵐の主教会、あるいは蒸気と機械の神教会の信徒におなりなさい。」

 「大多数の人は死ぬまで超越者を見ることはありませんし、教会とて何も変わらないだろうと考えています。有力な教会の内部の聖職者ですら、こういう考えの人は少なくありません。しかし、はっきり申し上げますが、仲裁廷や裁判所、処刑機関などに超越者は存在し、暗闇で成長する危険に抗いつづけています。今はただ、黒鉄時代初期や以前に比べ、その数が大きく減っているだけなのです。」

 周明瑞はじっと耳を傾けていたが、体は意に反して、子どもの話を聞いているように注意力散漫な動きをしていた。

 クラインの頭に残っている歴史の常識のおかげで、周明瑞は「黒鉄時代」というのは、現在の紀元、つまり1349年前に始まった第五紀を指すということは知っていた。

 オードリーは静かに話を聞き終えると、軽くため息をついて言った。

 「そんなこと、むしろあなた様よりよく知ってます。夜を統べる者とか、罰を与えし者、機械の心だとかも知ってる。でも、私は自由を失うのは嫌なの。」

 アルジェは小さく笑うと、口ごもり気味に言った。

 「何の代償も払わずに超越者になれるとお思いですか? 教会に入信はしたくない、辛い思いをするのは嫌だというのであれば、王室や、家系が千年以上も続く貴族に頼むか、あるいはコソコソ地下活動をしている悪の組織にイチかバチかで頼み込むしかないでしょう。」

 オードリーは思わずほっぺたをぷうっと膨らませた。それから慌てて左右を確認し、「ミスター・神秘」も正面に座っている男も今の仕草に気づいていないと確信すると、さらに尋ねた。

 「他の方法はないの?」

 アルジェはまた沈黙した。呼吸を10回以上も繰り返した後、一言も発さず傍観者を決め込んでいる周明瑞のほうをくるりと向いた。

 周明瑞が態度を表明しないとわかると、アルジェはオードリーのほうに向き直り、反応を確かめながら言った。

 「実は私は、序列9のポーションの処方箋を2つ所有しております。」

 序列9? 周明瑞はひそかにつぶやいた。

 「本当? どの2つなの?」オードリーは、序列9のポーションの処方箋が何を指すのかはっきりとわかっているようだった。

 アルジェは軽く背もたれに寄りかかると、遅くも速くもないスピードで話し始めた。

 「ご存知のように、人間が本物の超越者になりたいなら、ポーションを飲むしかありません。ポーションの名前は『冒涜の石板』に由来し、巨人語から精霊語、精霊語から古ヘルメス、古ヘルメスから古フサルク、そして現代ヘルメスというように翻訳が繰り返される中、早くから時代の特徴に合わせた変化が見られるようになりました。重要なのは名前そのものではなく、ポーションの『一番の象徴性』が表されているかどうかです。」

 「私が所有している序列9の処方箋の1つは『水夫』です。このポーションを飲むと、優れたバランス感覚が得られ、たとえ暴風雨に見舞われた船の上でも、地面を歩くように自由に動き回ることができます。他にも、並外れた怪力と、皮膚の下に隠された『幻鱗』を獲得できるので、魚のように捕まえられにくくなり、あたかも海族であるように水中で自由自在に動くことができます。何の装備もつけずとも、軽く10分は水に潜ることができます。」

 「なんだかすごそう……つまり、嵐の主の『海の眷者』ね?」オードリーは半ば期待するように、半ば証拠を求めるように聞き返した。

 「確かに古代では『海の眷者』と呼ばれていたようですね。」アルジェは休むことなく続けた。「もう1つの序列9の処方箋は『観衆』という名です。古代どう呼ばれていたかまではわかりませんが。このポーションは、卓越した精神力と鋭い観察力を与えてくれます。オペラや演劇をご覧になったことがあれば、『観衆』の持つ意味はおわかりになりますよね? つまり、傍観者のように世の中の『演者』を観察する人々です。その表情、立ち居振る舞い、口癖などの無意識の所作から、彼らの本当の考えをうかがい知ることができるのです。」

 そこまで言うと、アルジェは強い口調で言った。

 「いいですか、贅沢な宴会でも、にぎやかな街角でも、観衆はどこまでいっても単なる観衆に過ぎません。」

 オードリーは目を輝かせて話に聞き入っていた。そしてしばらく経ってようやく言葉を発した。

 「なぜかしら? まあいいわ、それは後で考えることにして。私、『観衆』が気に入ったわ。私が『観衆』の処方箋を手に入れるにはどうしたらいい? 何となら交換してくれる?」

 アルジェは予期していたかのように、低い声で言った。

 「幽霊ザメの血です。100ミリリットル以上の幽霊ザメの血です。」

 オードリーは興奮したようにうなずいていたが、ふと心配そうに尋ねた。

 「もし、もしもよ、もし私がそれを手に入れられたとして、どうやってあなたに渡せばいい? それに、あなたに幽霊ザメの血をあげた後、あなたが私にポーションの処方箋をくれるという保証はある? そもそも処方箋が本物かどうかっていう問題もあるわ。」

 アルジェは平然と言った。

 「住所をお教えしますので、そこに幽霊ザメの血を送ってください。受け取りましたら、引き換えに処方箋をお送りします。もしくは、今ここで処方箋をお教えしてもいいですよ。」

 「保証に関しては、こちらのミスター・神秘に証人になっていただければ、私もあなたも安心できますね。」

 アルジェはそう言いながら、上座に座っている周明瑞に視線を向けた。

 「ミスター、あなたは私たちをここに連れてくるほどの異能をお持ちです。あなたが証人になってくれたら、私もこちらの方も、背くことはできないでしょう。」

 「そうね!」オードリーも目を輝かせて力いっぱい賛成した。

 オードリーにしてみれば、想像もつかない方法でものすごいことをやってのけたミスター・神秘は、確かに「権威」ある証人だった。

 私はもちろんのこと、正面のあの男だってこの人を裏切るような真似はできないはずよ!

 オードリーは体をねじり、誠意を込めて周明瑞のほうを向いた。

 「お願い、私たちの取引の証人になってちょうだい。」

 その時、オードリーはようやく、大事な問題をずっと忘れていたことに気づいた。なんという失礼を! オードリーは慌てて周明瑞に尋ねた。

 「ごめんなさい、あなたを何と呼べばいいのかしら?」

 アルジェもうなずき、丁重に尋ねた。

 「あなた様を何とお呼びしたらよろしいでしょうか?」

 周明瑞は一瞬反応に困り、指で軽く青銅製の長テーブルを叩いた。ふと頭の中に、この前の占いのことがよぎった。

 周明瑞は椅子に座り直すと、肘をついて、あごの下で10本の指を交差させたポーズで、微笑みながら2人を見つめて言った。

 「俺のことは……」

 一呼吸置いて、軽い口調で続けた。

 「愚者と呼んでくれたまえ。」