普通は全員死ぬだって? 生きていてよかっただと? 幸運だと?
クラインは突然身を震わせ、ドアまで急いで移動し、警察官たちを追いかけて自分の身を守ってもらおうとした。
しかしクラインはドアノブに手を掛けると、急に動きを止めた。
「あの警察官はあんな恐ろしいことを言っていたというのに、一体なぜこの重要参考人であり、キーマンである僕を守ろうとしないのだろう。」
「これはひどい怠慢じゃないのか?」
「それとも探りを入れられているのか?わざと犯罪を誘発させようとしているとか?」
さまざまな考えがクラインの脳裏を駆け巡り、警察がまだ暗闇のなかで自分を「監視」し、反応を伺っているのではないかと疑うしかなかった。
しかし、こう思ったところでクラインの心はだいぶ落ち着きを取り戻したため、ゆっくりとドアを開け、階段の方を向き、声をわざと震わせてこう叫んだ。
「僕を守ってくれますよね?」
警察官たちは何も答えず、ただそこには革靴が木製の階段に触れる、コツ、コツというリズムだけが響いた。
「きっと守ってくれますよね!」クラインは確信に満ちた声を装ってもう一度叫び、自分は、さも危険にさらされた真人間であるかのように振る舞った。
足音はしだいに小さくなり、マンションの1階へと消えていった。
クラインは低く唸り、腹の中で鼻を鳴らして笑った。
「嘘っぽかったかなあ。演技力は落第点か。」
クラインはそれ以上追いかけることはせず、部屋の中へ入り、無造作にドアを閉めた。
それからの数時間、クラインは落ち着かない、居ても立ってもいられない、気を揉んでむしゃくしゃする、聞いても意味がわからないなど、中国の言葉に表すパフォーマンスを繰り返した。周りに誰もいないからといって、手を抜くことはしなかった。
これじゃまるで演者の自己修養じゃないか。クラインは心の中でそう自嘲した。
太陽が西に傾き、空の雲が「燃え」始めた。マンションの住人が次々と帰宅し、クラインは意識を別のところへ向けた。
「メリッサがそろそろ学校から帰って来る頃か。」クラインはコンロに目をやり、やかんをひょいと持ち上げ、炭を払い、回転式拳銃を取り出した。
そしてそのままクラインは、10数本の支柱が組み合わさった、2段ベッドの下段の床板の裏へと手を伸ばした。
回転式拳銃をベッド裏の支柱と床板の間に挟んだあと、クラインは身体を起こした。拳銃を構えた警察が、突然勢いよくドアを開けて部屋へ入って来るのではないかと、びくびくしながらメリッサの帰りを待っていた。
もしここが平常の蒸気の世界だったなら、クラインはさっきの行為をしたときに、誰にも見られていないことを確信したことだろう。だがここには非凡な力がある。自ら確かめた非凡な力があるのだ。
数分経ったが、相変わらずドアはピクリとも動かなかった。ただ2人の住人が鉄十字路にある「ワイルド・ハート」というバーへ行く約束をする話し声だけが、近づいては遠のいた。
「ふう。」クラインはほっとして息を吐き出し、胸をなでおろした。
メリッサが帰宅したら、ラム肉とエンドウ豆の煮込みを作ろう。
そう考えたとたん、クラインの口の中は美味い肉汁の風味でいっぱいになり、また、メリッサがどうやってラム肉とエンドウ豆の煮込みを作っているかについて思い出した。
メリッサは最初に湯を沸かして肉のかたまりを浸し、そのあと玉ねぎ、塩、コショウ少々と水を加えて直接煮込み、しばらく経ったらエンドウ豆とジャガイモを加え、そのまま4~50分、弱火で煮込むのだ。
「あまりにもシンプルな作り方だなあ。肉自体の風味をそのまま味わうとは。」クラインは堪えきれずに頭を振った。
だがこれもやむを得ないことなのだ。庶民の家では、さまざまな調味料や調理法が使えるわけがないのだ。ただシンプルで実用的で、お金のかからない料理を追求するしかなく、肉が焦げず、腐らなければいいのだ。週に2回、ひどい時には1回しか肉にありつけない人間にとっては、どんなものでもありがたい。
クラインはお世辞にも料理上手とは言えず、日ごろは外食が中心だったが、週3、4回は食事を作り続けているのだから、さすがに合格点には達している。だからあのラム肉を無駄にすることはないだろう、と思った。
「メリッサが帰宅してから作るとなると、出来上がりは7時半以降になるだろう。それではメリッサはお腹がペコペコになってしまう。そうだ、そろそろ本当の料理の腕前を見せつけてやってもよい頃だ。」クラインはそう言い訳をして、まずコンロに火を着け、共同洗面所で水を汲んでラム肉を洗い、まな板と包丁を取り出して、ザクザクと小さく切った。
急に料理ができるようになったことをメリッサにどう説明するかについて、クラインはウェルチ・マクガヴァンのせいにすることにした。ウェルチは地中海風メニューが得意なシェフを雇っていただけでなく、自分でもよく美味しい料理を研究し、振る舞っていたからだ。
ま、死んだやつは俺に反論しないだろう。
でもここは超越者の世界だから、死んだからといって話ができないとは限らないか。こう考えると、クラインは言いようのない不安に襲われた。
クラインはぐちゃぐちゃになった考えを放り投げ、肉のかたまりをスープボウルに入れた。そして、調味料入れを手に取り、黄ばんだ粗塩を1さじ半振り入れた。また、専用の小瓶から貴重な黒コショウを取り出し、ラム肉と塩と一緒にもみ込んだ。
煮込み鍋をコンロに置いて加熱している間、クラインは昨日の残りのニンジンを探し、今日買った玉ねぎと一緒にカットした。
準備が整うと、クラインはまたキャビネットから小さな缶を取り出した。中にはラードが少しばかり残っていた。
クラインはラードを1さじすくい、鍋に入れた。ラードが溶けたあと、カットしたニンジンと玉ねぎを入れ、しばらく炒めた。
いい香りが部屋いっぱいに広がり始めると、クラインはラム肉を全部放り込んで、よく火を通した。
本来ならここで料理酒を少々振り入れるべきで、なければワインを使うべきだったが、モレッティ家にはそのような贅沢なものはなかった。ベンソンも週にビールを1杯飲むのがやっとであったため、クラインはあり合わせのものを使い、お湯を入れて、適当に作るしかなかった。
20分ほど煮込んだあと、クラインは鍋の蓋を開けて、柔らかいエンドウ豆と切ったジャガイモを入れ、コップ1杯分のお湯と塩2さじを加えた。
鍋の蓋を閉じて火を弱めると、クラインはほっとして息を吐き、妹の帰りを待っていた。
時間は刻々と過ぎ、部屋の中の香りはどんどん強くなった。肉の誘惑、ジャガイモの芳醇さ、玉ねぎの「さっぱり」感……
香りはだんだんと混ざり合い、クラインは時々唾をのみ込みながら懐中時計の蓋を開け、長針を見つめた。
40分以上経って、軽快ではないがリズム良い足音が近づいてきた。鍵が差し込まれ、ノブが回り、部屋のドアが開いた。
「いい香り。」メリッサは部屋に入ろうとしたとき、訝しげに呟いた。
そしてメリッサはかばんを持って部屋へ入り、コンロに目を向けた。
「兄さんが作ったの?」メリッサは薄絹の帽子を脱ぐ動作を途中で止め、クラインを恐る恐る覗き込んだ。
メリッサは鼻をすすり、香りをさらに吸い込むと、確信を得たかのようにすぐに目つきを和らげた。
「本当に兄さんが作ったの?」メリッサは再び訝しげにそう尋ねた。
「兄さんがラム肉を無駄にしたんじゃないかと思ったんだろう?」クラインは微笑みながらメリッサに聞いた。そしてメリッサの答えを待たずに、「安心しろ。ウェルチにこの料理の作り方を教えてもらったんだよ。あいつにはいいシェフが付いているだろう?」と言った。
「初めて作ったの?」メリッサは思わず眉間にしわを寄せたが、香りによっていつもの表情に戻った。
「どうやら兄さんには才能があるようなんだ。」クラインはそう言って笑った。「そろそろできるから。本や帽子を置いて、手を洗っておいで。期待して待ってろよ。自信作だからね。」
兄のきっちりとした段取りを聞き、優しく穏やかな笑顔を見たメリッサは、入口で呆然と立っていた。
「くたくたに煮たのが好きか?」クラインは笑みを浮かべながら促した。
「え?わ、わかった。」メリッサは我に返り、片方の手にかばんを、もう片方の手には帽子を持って、そそくさと部屋の中へ入った。
鍋の蓋を開けると、クラインの目の前には湯気が広がった。ラム肉とエンドウ豆の煮込みの脇に置かれていた2本のライ麦パンは、においと熱を吸収してふわふわになっていた。
メリッサが荷物を片づけ、手と顔を洗って部屋へ戻ってきた頃には、テーブルの上にはジャガイモ、ニンジン、玉ねぎが添えられたラム肉とエンドウ豆の煮込みが1つの皿に入って置かれていた。肉汁色をした2本のライ麦パンは、それぞれの小皿の上に1つずつ置かれていた。
「さあ召し上がれ。」クラインは皿の脇に置いておいた木製のフォークとスプーンを指さしながら言った。
メリッサは呆然としたまま素直にフォークを手に取り、ジャガイモを突き刺して口元へ運び、一口噛んだ。
ジャガイモのねっとりした食感、肉汁の濃厚な香りが口の中に同時に広がり、メリッサはよだれが止まらなくなった。そしてあっという間にジャガイモを平らげた。
「次は肉だよ。」クラインは顎を皿の方に向けながら言った。
クラインは味見をしたとき、まずまずの味だと思っていたが、世の中を良く知らず、時々しか肉を食べられない若い娘にとって、これは十分なものだろう!
メリッサの目は期待感に満ちて輝き、ラム肉の一切れをフォークで慎重に刺した。
ラム肉は驚くほど柔らかで、口の中に入れたとたんにとろけるようだった。本物の肉の味とほとばしる肉汁が口の中いっぱいに広がり、駆け巡った。
メリッサにとってはこれまでに味わったことがないほどの美味しさで、彼女は夢中になって食べた。
我に返ったとき、メリッサはもうラム肉を何切れか食べていた。
「私、私ったらどうしよう。クライン、これはあなたの分よ。」メリッサは顔を赤らめ、言葉に詰まった。
「僕はもう、こっそり食べたんだ。これは作った人の特権だから。」クラインは笑って妹を慰めながら、フォークとスプーンを手に取って、肉を食べたり、エンドウ豆を頬張ったり、カトラリーを置いてライ麦パンを煮込み汁に浸して食べたりした。
メリッサはほっと胸をなでおろした。クラインのいつもと変わらぬ様子のおかげで、再び美味しさの喜びに酔いしれた。
「本当に美味しいわ。初めて作ったとは到底思えない。」メリッサは汁一滴すら残っていない空っぽの皿に目をやり、心から称賛した。
「ウェルチのシェフには遠く及ばないけどね。そうだ、お金持ちになったら、ベンソンと3人で一緒にレストランへ行って、もっと美味しいものを食べようよ。」クラインはわずかに抱き始めた夢を語った。
「そういえば、兄さんの面接会は……ゲフッ……」メリッサは話の途中で突然、美味しさに満たされた音を抑えきれなくなった。
そして慌てて口元に手を当て、気恥ずかしそうな表情を浮かべた。
何もかも、さっき食べたエンドウ豆とラム肉の煮込みが美味し過ぎたせいだ。
クラインは密かに笑ったが、妹をからかって笑うのは止めた。そして皿を指さし、
「片づけはよろしくね」と言った。
メリッサは「わかったわ」と言うと、すくっと立ち上がり、皿を持って勢いよくドアの向こうへ行った。
そして皿を洗って部屋へ戻ると、キャビネットを開けていつものように調味料入れなどを確認した。
「兄さん、これ使ったの?」メリッサは驚いた口調で問いかけ、黒コショウの瓶とラードが入った缶を持ったまま、クラインの方へ振り向いた。
クラインは両手を軽く広げて笑った。
「ほんの少しだけね。美味しさのためのコストだよ。」
メリッサはパチパチと瞬きをし、表情をくるくると変え、終いには唇を尖らせて言った。
「やっぱりこれからは私が作るわ」
「うん……兄さんは時間を大切にして、面接の準備をするべきだわ。仕事のことを考えなくちゃね。」