ダ、ダ、ダ。
足音が暗く狭い廊下に響き渡り、静寂の中、遠くまで伝わった。他の雑音は何もなかった。
クラインは背筋をピンと伸ばし、遅くもなく速くもない速度で、何も聞かず、何も話さず、まるで風のない湖水のように、静かに中年牧師の後をついて行った。
厳重に管理された通路を通り、中年の牧師は鍵で秘密のドアを開けた。そして下に向かう石の階段を指さしながら言った。
「十字路を左に曲がるとチアニーズの門だ。」
「女神のご加護があらんことを。」クラインは胸の前で4つの点を打ち、緋色の月の「形」を描いた。
世俗には世俗の作法があり、宗教には宗教の儀礼がある。
「女神への賛美を。」中年の牧師も同じ動作をした。
クラインは余計なことは口にせずに、そのまま石の階段を進み、両側の壁に埋め込まれた優美なガスランプの光を頼りに、一歩一歩、暗闇の奥へと歩みを進めた。
半分ほど歩き、クラインが無意識に振り返ると、あの中年牧師がまだ入口にいて、階段の一番上に立っているのが見えた。ガスランプの光の影の中に立っている姿は、まるでどっしりとして動かない蝋人形のようだった。
クラインは視線を元に戻し、そのまま下へ降りた。ほどなくクラインは、冷たい石を敷いた床に触れ、十字路にたどり着いた。
しかしクラインは「チアニーズの門」の方向には曲がらなかった。なぜならちょうど勤務中だったダン・スミスはそこにいるはずがなかったからだ。
見慣れた右側の道に沿って進み、クラインはまたほかの階段を上った。すると「ブラックソーン・セキュリティ社」の内部が現れた。
部屋のドアが完全に閉まっているか、ほぼ閉まっているかという様子を見て、クラインはやたらと探すことはせずに、応接室へ入った。すると笑顔が素敵なシュロ色の髪の毛の女性が熱心に雑誌を読んでいた。
「やあ、ロクサーヌ。」クラインはそばへ寄り、わざと机を軽く叩いた。
ガチャン!
ロクサーヌは急に立ち上がって椅子を倒し、慌てて言った。
「ハイ、今日はいい天気なのに、あ、あなた、ク、クラインはどうしてここにいるの?」
ロクサーヌは胸に手を当て、まるでさぼっていることを父親に見つかるのを恐れている少女のように息を吸った。
「リーダーに用があるんだ。」クラインは簡潔に答えた。
「……びっくりした。てっきりリーダーがやって来たのかと思ったわ。」ロクサーヌはクラインを睨みつけ、「全く、ノックもしないなんて。フンッ。私が寛大で慈悲深い女で良かったって思ってちょうだい。なになに、私はお嬢さんという言葉がもっと大好きだわ……で、リーダーに何の用事があるの?オリアンナさんの向かいのあの部屋にいるけど。」
すこぶる緊張していたが、クラインはロクサーヌにからかわれて笑みをこぼし、考えながら呟いた。
「内緒。」
「……」ロクサーヌが信じられないといった様子で目を丸くしたとき、クラインは軽くお辞儀をして、さっと別れを告げた。
クラインは再び応接室の仕切り戸を通り、右に曲がって最初にあった事務室のドアをノックした。
「どうぞ。」ダン・スミスの低く優しい声が響いた。
クラインはドアを開けて中へ入り、後ろ手でドアを閉め、帽子を脱いで敬礼をした。
「おはようございます、リーダー。」
「おはよう。何かあったのかね?」ダンの黒いダスターコートと帽子は、そばにあったコート掛けに掛けられ、身にまとっていたのは白いシャツと黒いベストだけだった。髪の生え際がやや高い位置にあり、灰色の瞳は奥が深くなっているものの、とても爽やかな印象だった。
「誰かに尾行されているんです。」クラインは余計なことは取り繕わず、正直に答えた。
ダンは背もたれに寄りかかって両手を組み、吸い込まれそうな灰色の瞳で静かにクラインの目を見つめた。
そして尾行の話は続けず、こう尋ねた。
「聖堂から来たのか?」
「はい。」クラインははっきりと答えた。
ダンは軽く頷き、それが良いことか悪いことかは言わずに、話を戻した。
「おそらくはウェルチの父親が我々の通報した死因を不審に思い、風の街から私立探偵を雇って調べているのだろう。」
インランド・シー郡のコンストン市は風の街とも呼ばれ、石炭と鉄鋼産業で非常に発展した地域で、ルーン王国の全ての都市の中でもトップ3に入るほどだった。
クラインが口を開く前に、ダンは話を続けた。
「もしくはあのノートの出所に関わるかもしれない。はあ。我々は今、ウェルチがどこからアンティゴノス家のノートを手に入れたのかを調べている。もちろん、他にこのノートを探している人や組織を排除することはできないが。」
「僕はどうしたらいいのですか?」クラインは声をひそめて尋ねた。
何も疑問もなく、クラインは最初の理由であることを願った。
ダンは即座には答えず、コーヒーカップを持ち上げてひと口飲むと、灰色の瞳を一点も曇らせることなく言った。
「来た道を戻りなさい。そしてやりたい事を何でもやりなさい。」
「何でも?」クラインは問い返した。
「何でも。」ダンは明確に頷き、「もちろん相手を驚かせたり、法律に触れることをしたりしてはいけないよ。」
「わかりました。」クラインは息を吸い、別れの挨拶をして身体の向きを変え、部屋を出て再び地下へ戻った。
クラインは十字路を左折し、両側に点在するガスランプの光を浴びながら、誰もいない、閑散とした、薄暗く冷たい道を静かに歩いた。
ダンダンという響きが重なり合い、孤独と恐怖が強まった。
やがてクラインは階段に近づき、一歩一歩上へ上がると、暗い影の中に、入口に立つ中年牧師の姿が見えた。
2人は顔を合わせたが何も話さず、中年牧師は無言で身体の向きを変え、道を譲った。
無言のまま前へ進み、クラインはチャペルへ戻った。アーチ型の祭壇の後ろにある、1つ1つの丸い穴の光は相変わらず清らかで、屋内の薄暗さと静けさもそのままだった。告解室の外には相変わらず紳士や淑女が並んでいたが、人数はだいぶ少なくなっていた。
しばらくすると、クラインはステッキと新聞を持って、まるで何事もなかったかのようにゆっくりとチャペルを出て、聖セレーナ大聖堂を後にした。
外に出て照りつける太陽を見ると、クラインは急にまた例の注視されているような感覚に襲われ、自分はまるで鷲に狙われた獲物のようだと思った。
ふと、クラインの頭の中に疑問が浮かんだ。
「覗く者」はなぜ俺を追って聖堂の中へ入らなかったのだろう。薄暗い環境と牧師の助けを借りて、俺は短時間「消える」ことができたが、あいつだって祈るふりをして後をついて監視することくらい簡単だっただろう。何も悪いことをしていないなら、公明正大に中に入ったって問題ないじゃないか。
あいつに黒歴史があるとか、聖堂が怖いとか、司教を恐れているとか、俺に超越した能力があることを知っているとかじゃない限り。
こうやって考えてみると、私立探偵の可能性はめちゃめちゃ低そうだ。
ふう。クラインは息を吐き、もうこれまでのように緊張することなく悠然と歩き、遠回りをして反対方面にあったツォトゥラン街に着いた。
クラインは古風な趣で色がまだらな外壁の建物の前で足を止めた。入口に表示されていた番地は「3」で、名称は「ツォトゥラン射撃倶楽部」だった。
警察の地下射撃場は、追加収入を得るために、部分的に「一般」に開放されていた。
クラインが中に入ると、監視される感覚はすぐに消えたため、このチャンスに「特別行動部」のバッジを受付の係員に渡した。
本物かどうかを少し確認したあと、係員はクラインを地下にある、開放されていない小さな射撃場へ案内した。
「標的10m。」クラインは係員に簡単に伝えたあと、脇下のホルスターから回転式拳銃を取り出し、服のポケットから真鍮色の銃弾が入ったケースを出した。
急に誰かに狙われたことにより、クラインは自己防衛したいとの思いが、先延ばし癖を上回り、早く射撃練習をしたいと思うようになった。
パチッ!
係員が去ったあと、クラインはシリンダーを振り出し、銀色のモンスター・ハント弾を1つ1つ取り出した。そして真鍮色の普通弾をつまみ、1発ずつチャンバーに詰めた。
このときクラインは、誤射防止のためのスペースを設けず、ジャケットもシルクハットも脱がず、普段の服装に一番近い状態で練習しようと思った。敵や危険に遭遇した後に、「ちょっと待ってください。先に動きやすい服装に着替えさせて下さい」と叫ぶことなど不可能だからだ。
カチッ。
クラインはシリンダーを本体にはめ込み、親指でくるりと回した。
そして急いで両手で拳銃を握ると、素早く一直線に持ち上げ、10m先にある標的に向けた。
だがすぐには撃たずに軍事訓練で的を外した経験や、照星、射撃時に発生する反動エネルギーなどの基礎知識について、丁寧に思い出した。
カサッ!カサッ!
服が引っ張られる音の中で、クラインは1回、また1回と、狙いを定める練習や、銃を持つフォームの練習をした。その様子は大学受験をする子供のように真剣だった。
何度も繰り返したあと、クラインは壁際に移動し、ふかふかのベンチに座った。そして回転式拳銃を傍に置き、自分の腕を自分でマッサージして、しばらく休憩した。
数分かけてさっきの動作を振り返ったクラインは、グリップが木製で、シリンダーが銅色の拳銃を再び手に取った。そして射撃位置に立ち、基本姿勢で引き金を引いた。
バンッ!
クラインの腕は震え、身体はやや後ろに反り返った。銃弾は標的を外れた。
バンッ!バンッ!バンッ!
新しい経験を吸収したクラインは射撃を繰り返し、6発の銃弾が全てなくなるまで、実践を通して感覚を探った。
標的に当たり始めたぞ……クラインは再び後ろに下がって座り、少し息をついた。
パチッ!クラインはシリンダーを振り出し、6つの空薬莢を地面にポトポトと落とした。そのあとまた、表情を変えることなく残りの真鍮色の銃弾を1発ずつ詰めた。
腕の緊張をほどく動きをしてから、クラインは再び立ち上がり、総括しながら射撃位置へ戻った。
パンッ!パンッ!パンッ!
銃声が響き、標的が揺れた。クラインは練習と休憩を繰り返しながら、受け取った30発の普通弾と以前の残りの5発を全て撃った。弾はだんだんと安定して当たるようになったため、どこに当たるかを追求し始めた。
だるく、痛くなった腕を振り、クラインは最後に銃を傾けて空薬莢を5発分取り出し、頭を下に向けて、複雑な模様のある銀色のモンスター・ハント弾を1発ずつ詰め込み、誤射防止のためのスペースを残した。
回転式拳銃を脇下のホルスターに戻したあと、クラインは身体に付いた硝煙カスを叩き落とし、リラックスした気分で専用射撃場から街中へ戻った。
観察される感覚がまた起こったが、クラインの気分はこれまでより落ち着いており、ゆっくりと歩いてシャンパン街へ行った。そして4ペンス支払って軌道馬車に乗り、鉄十字街へ戻って自宅のあるマンションに帰った。
覗き見られる感覚はいつの間にかなくなり、クラインは鍵を取り出してドアを開けた。すると30歳くらいの、リネンシャツを着た短髪の男が、テーブルの前に座っていた。
クラインは心臓がドキッとしたが、すぐにリラックスし、にこやかに挨拶をした。
「おはよう、いや、こんにちは、ベンソン。」
この男はクラインとメリッサの兄で、名前はベンソン・モレッティである。今年25歳になったが、髪の生え際が後退しているため、見た目は実年齢よりも老けており、もうすぐ30歳になるかのようだ。
ベンソンは髪色が黒く、目は茶色で、クラインとはいくらか似ていたが、かすかなインテリっぽさはなかった。
「こんにちは、クライン。面接はどうだった?」ベンソンは立ち上がり、口の両端から笑みをこぼした。
ベンソンの黒いコートとシルクハットは、両方とも2段ベッドの出っ張りに掛けてあった。
「全然ダメだったよ。」クラインは無表情で答えた。
ベンソンがぽかんとする様子を見て、クラインは軽快に笑いながら言葉を付け加えた。
「実は僕は面接に参加しなかったんだ。その前に仕事が見つかっちゃってさ。報酬は週給3ポンドだよ……」
クラインは以前メリッサに話したのと同じことを繰り返した。
ベンソンは表情を和らげ、首を振って笑った。
「何だか子供が大きく育ったような感覚だな……うん、この仕事もいいじゃないか。」
そしてため息をついて言った。
「仕事で駆けずり回って帰ってきてすぐに、こんな良い知らせを聞けるなんて、本当に嬉しいよ。今夜はみんなでお祝いしよう。牛肉でも買って来るか?」
クラインは笑って言った。
「そうしよう。でもメリッサはもったいないと言うだろうね。午後にみんなで一緒に食材を買いに行こうか。お金は最低3スラー持っていく?えーっと、本音を言えばさ、1ポンドは20スラー、1スラーは12ペンス、それからハーフペンス、クオーターペンス。こういう貨幣制度は実に反直観的で、面倒だ。これは絶対に世界で最も愚かな貨幣制度のうちの1つだと思う。」
クラインが話し終わると、ベンソンの表情は急に真面目になった。何か言ってはいけないことを言ってしまったのかと、クラインは突然不安になった。
まさか以前の主が失くした記憶の欠片の中に、ベンソンは純粋で極端な王国の擁護者で、他人のちょっとした否定的な意見も許容しないというのがあったのだろうか。
ベンソンはゆっくりと何歩か歩き、重たい表情で反論した。
「いや、こんな愚かな貨幣制度は他にはないよ。」
他にはない……クラインはぽかんとしたが、すぐに反応し、兄と互いに目を合わせて笑った。
やっぱりベンソンお得意の、皮肉ったユーモアだったか。
ベンソンは口角を上に向け、真剣な様子でこう付け加えた。
「分かっていると思うけどさ、合理的でシンプルな貨幣制度を作るには、ある前提が必要なんだよ。つまり数を数えられること。それから十進法をマスターしていること。でも地位や名誉のある人の中に、こういう人材は極めてまれなんだよね。」