ツォトゥラン街を歩いていると、熱く湿った微風が吹き、気力溢れるクラインはふとあることを思い出した。
手元の小銭は3ペンスしか残っていないが、乗合馬車で鉄十字街へ戻るには4ペンス必要だ。だが1ポンド紙幣を渡してお釣りをもらうことは、タイムスリップする前に100元で安いミネラルウオーターを買っていたような感覚だ。他に方法がある限り、そうするのは気が進まない。
「3ペンスで3㎞乗って、そこから先を歩いて行くのはどうだろう?」クラインは片手をポケットに突っ込み、歩くスピードを落とし、他の方法がないか考えた。
「だめだ。」クラインはすぐにその考えを否定した。
残りの道を歩くだけでは結構時間がかかってしまうし、12ポンドという「大金」を持ち歩くのは、あまりにも不安だ。
しかもこの前、回転式拳銃が「夜を統べる者」に没収されることを恐れて、今日はわざと持ってこなかった。ウェルチの死によって何らかの危険が降りかかっても、何も対抗する術がない。
「付近の銀行で小銭に両替するのはどうだろう。いや、だめだ。1,000分の5もの手数料が取られてしまう。あまりにも贅沢だ。」クラインは無言のまま首を振った。手数料を払うかもしれないと考えただけで、もったいないと思った。
一つひとつ方法を消去していくうちに、クラインの目の前は突然明るくなり、衣料品店が目に入った。
そうだ。いちばん真っ当な考えは、適正な価格のものを買って、お釣りをもらうことじゃないか。
ジャケット、シャツ、ベスト、スラックス、革靴やステッキはどれも予算に組み入れていた。いずれは買う必要のあったものばかりだ。
でも衣類は試着が面倒だし、俺よりベンソンのほうがよくわかっているうえ、値切るのも上手だからなあ。ベンソンが戻ってきたらまた考えよう。
じゃあ、ステッキはどうだろう。
これはいい!ステッキは紳士にとって最高の護身用武器だという諺がある。バールとして使うこともできるし、片手に銃を持ち、もう片方の手にステッキを持つのが、文明人の戦い方というものだ。
さまざまな考えが浮かんだが、クラインは決心して身体の向きを変え、「ウィルケル衣料品店」に入った。
衣料品店のレイアウトは、クラインがタイムスリップする前に目にしたアパレルショップと似ており、左側の壁寄りにはジャケットが並び、中央にはシャツやスラックス、ベスト、ネクタイなどが、右側にはガラスの棚に革靴や革のブーツが置かれていた。
「お客様、どのようなものをお探しですか?」ワイシャツに赤いベストを着た男性店員が寄って来て、丁寧に尋ねた。
ルーン王国では、地位も権勢も財力もある紳士たちが、白シャツに黒いベスト、黒いスラックスに黒いジャケットという、かなり単調な色合いを好んでいたため、男性の使用人や店員、ウェイターといった階層の人たちは、主人と従者、あるいは身分の高低を区別するために、鮮やかでカラフルな装いをすることが求められた。
これとは対照的に、婦人や若い女性はさまざまな色合いのスカートを履き、華やかに着飾ったが、メイドは白と黒のコーディネイトしかできなかった。
男性店員からの問いかけに、クラインは少し考え込んだが、
「ステッキです。やや重くて硬いのはありますか。」
敵の頭をぶっ飛ばすようなのがいい。
赤いベストを着た店員は、クラインを密かに観察すると店内へ案内し、隅の方に並んでいる杖を指さした。
「金の象嵌を施してあるあの商品は、メトロシデロス製のものです。重くて硬く、価格は11スラー7ペンスです。お試しになりますか?」
11スラー7ペンスだって?君たちはなぜ盗んでしまわないんだい。金がはめ込まれていることはそんなに素晴らしいものなのか?クラインはその価格に驚いた。
しかしクラインはそんなことはおくびにも出さず、僅かに頷いて言った。
「はい、試してみます。」
赤いベストを着た店員は、メトロシデロス製のステッキを取り出し、品物を落として壊さないよう、慎重にクラインに手渡した。
クラインはステッキを手に取ったとたん、重いと感じた。試しに動かしてみたが、自分がこれをスムーズに振り上げたり振り下げたりするのは、無理だと気付いた。
「これは重すぎます。」クラインは首を横に振りながら、内心ほっとした。
これは決して言い訳ではない。
赤いベストを着た店員は、メトロシデロス製のステッキをもとの場所へ戻し、他の3本のステッキを指さした。
「これはウォールナットで出来ており、ティンゲンで最も有名なステッキ職人・ヘイズ氏によるものです。価格は10スラー3ペンスです。こちらは水に沈む木材を使い、銀の象嵌を施したもので、鉄のように硬く、価格は7スラー6ペンスです。そしてこちらはカラカシワナラの芯で作ったもの。同じく銀の象嵌を施しており、価格は7スラー10ペンスです。」
クラインはステッキを1本ずつ手に取り、試してみた。重さはどれもちょうどよく、指先を曲げて叩くとそれぞれの硬さがどの程度か、おおよそ把握できた。そして最終的に、最も安価なものを選んだ。
「水に沈む木製のものにします。」クラインは赤いベストを着た店員が手に持っていた、銀の象嵌が施されたステッキのヘッドを指さした。
「承知しました、お客様。お支払いはあちらでお願いします。今後、もしも摩耗や汚れが生じましたら、当店までお持ちください。無料でお直しします。」赤いベストを着た店員は、クラインをカウンターへ案内した。
クラインはこのチャンスに、4枚のポンド紙幣を握っていた手を開き、やや小額の2枚のうちの1枚を手に取った。
「ごきげんよう、7スラー6ペンス様。」カウンターの向こうにいる店員がにこやかに敬礼した。
クラインは紳士としての体面を保とうとしていたが、左手に1ポンド紙幣を持って渡そうとしたときに、我慢できずに口を開いた。
「少しお安くできませんか?」
「お客様、これは全て手作りで、私どもも大変コストをかけた品です。」赤いベストを着た店員が傍らで答えた。「しかも現在、店主が不在でして。残念ながら我々にはお値下げの権限がないのです。」
カウンターの向こうにいる店員も、同調するようにこう言った。
「お客様、申し訳ありません。」
「わかりました。」クラインは紙幣を渡し、赤いベストを着た店員から、上部に銀象嵌を施した黒いステッキを受け取った。
釣銭をもらうまでの間、クラインは数歩下がって距離を開け、「第2の武器」を小幅に振ったときの感触を試した。
ブン!ブン!ブン!
風の音は重く、空気が切れる感触があったため、クラインは満足して頷いた。
クラインが紙幣と硬貨を用意しているところを見ようと視線を前へ向けたところ、なんと赤いベストを着た店員は後ずさりし、カウンターの向こうにいた店員は隅の方で縮こまって、壁に掛けられたダブルバレルのショットガンにぴったりと寄り添っていたことに愕然とした。
ルーン王国では、火薬を使用した武器について準規制政策をとっており、銃を所持したい場合には「全種武器使用証」か「狩猟証」の申請が必要だった。しかしいずれにせよ、連発銃、スチーム式高圧ガン、6連装機関銃などの軍備管理対象物の所持はできないことになっていた。
「全種武器使用証」では、民間の銃器であれば購入も所持も自由にできるが、取得が面倒で、一定の地位にいるビジネスマンでも、審査に通らないことがあった。「狩猟証」については比較的簡単で、田舎の農家でも取得できるが、このライセンスは猟銃の使用に限られており、所持できる銃の数にも制限があるが、資産家ではない多くの人が、現在のような危険な状況での自衛のために申請していた。
クラインは強く警戒している2名の店員を見て、口元を引きつらせ、にたにたと作り笑いをした。
「すばらしい。このステッキは振るのにちょうどよい。実にいい買い物をした。」
クラインが攻撃するつもりではないことが分かり、カウンターの向こうにいる店員は表情を緩め、用意した紙幣と銅貨を両手で差し出した。
クラインはそれを受け取り、確認したところ、5スラーと1スラーの紙幣がそれぞれ2枚と、5ペンス、1ペンスの銅貨がそれぞれ1枚あり、内心、思わず頷いた。
そしてその後すぐ、クラインは店員の視線を無視し、4枚の紙幣を1枚ずつ明るい方向へかざして、偽造防止の模様と透かしに間違いがないことを確認した。
それからクラインは紙幣と硬貨を別々にしまい、手にステッキとシルクハットを持ち、紳士のような出で立ちで「ウィルケル衣料品店」を後にした。贅沢にもすぐ近くから路線馬車に乗り、1度乗り換えても合計6ペンスでマンションへ戻ることができた。
ドアの鍵を閉め、11ポンド12スラーの紙幣を3回も数えてからテーブルの引き出しにしまった。そしてシリンダーが銅色で、グリップが木製の拳銃を取り出した。
カチャン、カチャン。
真鍮色の銃弾が5つ、次々とテーブルの上へ落ちた。クラインは複雑な模様と暗黒の徽章の入った、銀色の「モンスター・ハント弾」を、シリンダーに1つずつ詰めた。
クラインは今回も、銃弾を5つだけ詰めた。誤射を防ぐためにチャンバーに空きを設け、残りの銃弾と先に取り出した5つの普通弾を、小さな鉄製のケースの中へ入れた。
パチン!
シリンダーを定位置に戻すと、クラインは急に安堵した。
クラインは興味深く回転式拳銃を脇下のホルスターの中に入れ、しっかりと固定した。それからバックルを外す動作や回転式拳銃を抜き出す動作を何度も練習し、両腕が 疲れたら、少し休んだ後に再び練習した。空が暗くなるまで。マンションの廊下に住人が歩く音がするまで。
ふう……クラインは淀んだ息を吐き出し、回転式拳銃を再び脇下のホルスターへ戻した。
この時間になって、クラインはようやくジャケットとベストを脱ぎ、普段着ている黄褐色のコートを羽織り、両腕をクールダウンさせた。
ダッダッダッという足の音が近づき、鍵穴に鍵が入り、ひねる音が鳴った。
黒く柔らかな髪のメリッサがドアを開けて入ってきた。鼻をわずかにひくつかせながら、全く点火されていないコンロに目を向けると、メリッサの目の輝きは突然僅かに弱まった。
「クライン、昨夜残った食材を一緒に煮るわね。ベンソンは明日帰ってくるかもね。」メリッサは兄の方へ振り向いた。
クラインは両手をポケットに入れ、太ももをテーブルの縁にもたせかけてほほ笑んだ。
「いや、出かけよう。」
「外食?」メリッサは驚いて聞き返した。
「水仙花街にある『シルバー・クラウン』はどう?めちゃくちゃ美味しいって聞いたよ。」クラインはこう提案した。
「で、でも……」メリッサはまだ状況が呑み込めなかった。
クラインは笑って言った。
「僕の就職祝いだよ。」
「仕事見つかったの?」メリッサの声は思わず大きくなった。「で、でも、ティンゲン大学の面接試験は明日でしょ?」
「ほかの仕事だよ。」クラインは引き出しの中から紙幣の束を取り出し、「4週間分の給料も先払いしてくれたんだ。」と言った。
メリッサは何枚ものポンドとスラーを見て、目を大きく見開いた。
「女神様……兄さん、彼ら、兄さん、どんな仕事なの?」
それはね……クラインは表情をこわばらせ、言葉を選びながら言った。
「古物の発見、収集、保護をミッションとするセキュリティ会社で、プロのアドバイザーを募集していたんだ。5年契約で給料は毎週3ポンドだよ。」
「……それで昨晩、悩んでいたのね?」メリッサは少し沈黙した後、こう言った。
クラインは頷き、次のように言った。
「そうさ。ティンゲン大学の教員のほうが体裁はいいけど、僕はこの仕事に興味を持ったんだ。」
「……でも、これも素晴らしいじゃない。」メリッサは励ますような笑みを浮かべながら、疑い半分、興味半分で尋ねた。「彼らはどうして4週間分の給料を先払いしてくれたの?」
「僕たちが引っ越しする必要があるからだよ。もっと多くの部屋と、自分たち専用の洗面所が必要だからだよ。」クラインは口角を上げ、両手を広げて言った。
クラインは、自分は上手に笑みを浮かべており、あとは「驚いただろう?」とひと言言えば完璧だと思った。
メリッサは呆然としていたが、慌てた様子で突然早口になって言った。
「クライン。実のところ私たちの住まいは悪くはないわ。私がときどき自分たち専用の洗面所がないことに不満を言うのは単なる習慣よ。以前、うちの隣に住んでいたジェニーを憶えている?彼女のお父さんが怪我をして仕事を失い、下街へ引っ越しせざるを得なくなってからは、一家5人が1つの部屋で暮らしているの。2段ベッドに3人寝て、床に2人寝ているのよ。さらには寝床の空きスペースを他人に貸そうとしているんですって。」
「彼女の家と比べたら、私たちは恵まれているし、幸せよ。こんなことで兄さんの給料を無駄遣いしちゃ駄目。それに、私はスリムさんのパン店が大好きなの。」
妹よ。これは俺が想像していたシナリオとは違う反応だよ……クラインはメリッサの話を聞いて、呆然とした。