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第17章 特別行動部

「ブラックソーン・セキュリティ社」

 看板を前に、クラインはしばらく立ち尽くした。意外と言えば意外だが、予想通りという感じもする。

 まったく……どう突っ込んだらいいのか……クラインは頭を横に振って失笑しながら、そのまま階段を上り、右手で半開きのドアをノックした。

 コン!コン!コン!

 ゆっくりとリズミカルな音がこだまする。部屋から返答はなく、カタカタという微かな物音だけが聞こえる。

 コン!コン!コン!

 クラインはもう一度ノックするが、やはり返答はない。

 クラインは諦めてドアを押すと、広がった隙間から、応接間なのかクラシックなソファとソファチェア、ナチュラルウッドカラーのセンターテーブルが見えた。その向かい側のテーブルには褐色の髪をした若い女性がうとうとと居眠りをしている。

 「セキュリティ社」とはカモフラージュとはいえ、あまりにも「プロ意識」に欠けるだろう。どれだけ暇なんだ。まあ、仕事なんて必要ないのだろうが……クラインは心の中で突っ込みながら、女性の方へ歩み寄り、テーブルをノックした。

 コン!コン!

 女性は思わず姿勢を正し、目の前に広げていた新聞を両手に持って、顔を隠した。

 『ティンゲン市プレーン・ディーラー紙』……いい名前だ……クラインは新聞に記載されている紙名を心の中で読み上げた。

 「コンストン行きの直通蒸気機関車『フリュート号』が今日開通……ほんと、デイシー湾への直通列車はいつになったら開通するのかしら?船で行くのって大変なのよね……あら、どちらさまですか?」女性は白々しく記事を読んで感想を述べると、手に持っていた新聞を少し下げて、艶々の額と淡褐色の瞳を覗かせ、愛嬌を振りまきながら、びっくりした様子でクラインを見た。

 「あの、クライン・モレッティと言います。ダン・スミスさんの紹介で来ました。」クラインはシルクハットを取って胸に当て、軽くお辞儀をした。

 女性は20歳を過ぎたところだろうか。浅葱色の軽やかなルーン風のロングスカートを穿いており、袖口や首回り、胸元などに施された綺麗なレースが本人の魅力をいっそう引き立てている。

 「リーダーですね……かしこまりました。少々お待ちください。確認してきます。」女性はすぐさま立ち上がり、傍のドアから奥の部屋に入っていった。

 お茶の一杯もないのか……サービス精神に難ありだな……クラインは微かに笑みを浮かべると、ソファやチェアには座らず、その場で待つことにした。

 2、3分経つと、女性が笑顔で部屋から出てきた。

 「モレッティさん、こちらへどうぞ。リーダーは今日『チアニーズの扉』の監視で、手が離せないんです。」

 「はい。」クラインは落ち着いて歩き出しつつも、心の中には疑問が浮かんだ。

 チアニーズの扉?なんだそれは?

 間仕切りの向こう側にはそれほど長くない廊下があり、左右には事務室が3部屋ずつ並んでいる。

 事務室は鍵がかかっている部屋もあれば、ドアが開けっぱなしになっている部屋もあり、中ではスタッフがしきりに重厚なタイプライターでカタカタと文字を打っている。

 視線を移すと、ふと馴染みの人影が目に入った。あの日自分の家に捜査に来た、ロマンチックな詩人の雰囲気が漂う、緑色の瞳をした黒髪の若い警官だ。

 今日は制服を着ておらず、白シャツの裾もスラックスの外に出して、ルーズな格好をしている。

 もしかすると本当に詩人なのかもしれない……クラインが会釈をすると、相手は笑顔で応じた。

 褐色の髪をした女性は廊下の突き当たりの左側の部屋のドアノブを回してドアを開けると、笑みを浮かべながら中へと案内した。

 「ここから下へと移動します。」

 その部屋には何も物が置かれておらず、灰白色の石でできた階段が下の階へと続いている。

 階段の両側の壁には上品なデザインのガスランプが灯り、煌々とした明かりが暗闇を追い払い、安寧をもたらしている。

 先を行く女性は慎重に足元を見ながら歩いている。

 「ここはもう何度も通っているのにまだ怖いんです。足を踏み外して転げ落ちちゃったらどうしようって。レオナルドが実際それをやらかしましたからね。『眠らぬ者』になった最初の日、まだ力を十分に扱えないのに、全速力で階段を駆け下りようとして、車輪のように回り出した!あはは、思い出しただけで笑えてきます。あ、さっきあなたに挨拶をしたあの子ですよ。もう3年前のことですね。ってことは、私も夜を統べる者に入ってもう5年になるのかぁ。あの時はまだ17歳だったからなぁ……」

 女性は足元を確認しながら、人懐っこくクラインに話しかける。するとふと額に手を当てた。

 「すみません、自己紹介がまだでしたね。ロクサーヌと言います。父が夜を統べる者の正規メンバーだったんですが、5年前にある事故で亡くなりました。これからは同僚ですね。んっ?『同僚』でいいんだよね……私たちは超越者じゃないからまだメンバーとは言えないし。」

 「そうなれればいいですけど、最終的にスミスさんがどう判断するかですね。」閉ざされた周囲を見渡すと、地下に入った感覚があった。夏の暑さとは対照的に、石壁はひんやりと湿り気がある。

 「安心してください。ここに呼ばれたってことは、もう合格ってことですよ。でもリーダーってどこか怖いんですよね。優しいし父親みたいに接してくれますけど、なんとなく怖くって。」ロクサーヌは甘い声で話した。

 クラインは冗談交じりに返した。

 「父親なら怖くて当たり前じゃないですか?」

 「確かにそうですね。」ロクサーヌは曲がり角で壁に手を這わせた。

 話をしているうちに、二人は螺旋状の階段を最後まで下り、石板が敷かれた場所まで来た。

 長い通路になっており、両側の壁にはそれまで同様、金属の枠で縁取られたガスランプがある。ランプの明かりに照らされて、クラインとロクサーヌの影が長く伸びる。

 クラインは、「暗黒の徽章」が壁に一定の間隔で飾られていることに気づいた。「漆黒の背景に、きらびやかな光が緋色の半月を取り囲む」黒夜女神の象徴だ。

 この徽章には特に変わった点はなさそうだが、その間を歩いていると、気持ちが次第に落ち着く。ロクサーヌもそれまでの饒舌ぶりからは一転、黙り込んでいる。

 しばらくして、十字路が現れると、ロクサーヌは簡単に説明した。

 「左側へ行くと聖セレーナ大聖堂、右側に行くと武器・材料・文献資料室、まっすぐ進むとチアニーズの扉です。」

 聖セレーナ大聖堂?ツォトゥラン街はルナロッサ街の裏にあるのか?クラインはぽかんとしている。

 黒夜女神教会のティンゲン市本部であるルナロッサ街にある聖セレーナ大聖堂は、地元の敬虔な信徒なら誰もが憧れる聖地であり、郊外にある蒸気と機械の神教会の「聖数教会」、そして同じくティンゲン北区にある嵐の主教会の「川と海教会」と共に、ティンゲン市や周辺町村の宗教界を支えている。

 今の立場では根掘り葉掘り聞くのも良くないと思い、クラインは黙って聞き役に徹した。

 十字路を通って直進すると、1分足らずで、7つの徽章が刻まれた両開きの黒鉄の扉が目の前に現れた。

 それは暗闇に立ちはだかる巨大な門番のように重く冷たく佇み、こちらを凝視している。

 「チアニーズの扉です。」ロクサーヌはそう言いながら、傍の部屋を指さした。「リーダーがお待ちです。どうぞお入りください。」

 「ありがとうございました。」クラインは丁寧にお礼を言った。

 ロクサーヌが指した部屋は「チアニーズの扉」のすぐ手前にある。窓が開き、そこから光が差し込んでいる。クラインは深呼吸すると、ゆっくりと拳を握った。

 コン!コン!コン!

 「どうぞ。」ダン・スミスの落ち着いた優しい声が聞こえてきた。

 半開きになっていたドアを軽く押すと、部屋の中には机1脚と椅子4脚だけがあり、生え際が後退したダン・スミスが昨晩と同じ黒のトレンチコートに身を包み、優雅に新聞を読んでいる。胸元のボタンの辺りには懐中時計の黄金色のチェーンが垂れ下がっている。

 「おかけください。決心は固まりましたか?」ダンは手元の新聞を置いて微笑んだ。

 クラインはシルクハットを脱いで一礼すると、机の傍に腰かけ、ゆっくりと頷いた。

 「はい、固まりました。」

 「ではこの契りに目を通してください。一般には契約と呼ばれているものです。」ダンは机の引き出しを開けると、契りを2部取り出した。

 契りに記載されている条項は多くない。ほとんどはダン・スミスから以前聞いていた内容だ。重点は秘密保持条項で、これに違反した場合は、王国の法廷ではなく、兵士や士官が軍事法廷にかけられるのと同じように、黒夜女神教会の仲裁廷に直接かけられることになる。

 5年契約……週給2ポンド10スラーに、秘密保持手当と危険手当が10スラー……クラインは一通り目を通すと、真剣な表情で答えた。

 「問題ありません。」

 「では署名をお願いします。」ダンは机に置かれた深紅の万年筆とインクを指した。

 クラインは先に古紙で万年筆を試し書きすると、静かに息を吸って、2部の契りの署名欄に自分の名前を記した――「クライン・モレッティ。」

 まだ印鑑を作っていなかったため、最後は指紋を捺印するしかなかった。

 ダンは契りを回収すると、引き出しから印鑑を取り出し、契りの末尾など数か所に捺印した。

 捺印が終わると、ダンは立ち上がり、契約書を渡しながら、クラインに手を差し伸べた。

 「ようこそ。今から、君は私たちの一員だ。契約も秘密保持の対象だ。気をつけるようにな。」

 クラインも立ち上がり、契約書を受け取りながら、笑顔でダンの手を握った。

 「じゃああなたのことをリーダーとお呼びすればいいですか?」

 「そうだな。」ダンの灰色の瞳は薄暗がりの中でひと際深い広がりを感じる。

 握手を終えると、二人は椅子に腰かけた。クラインは契約に捺印された印鑑に目をやると、「ルーン王国アフワ郡ティンゲン市夜を統べる者」と記されている。

 「まさか『ブラックソーン・セキュリティ社』をカモフラージュに使うなんて思いませんでした。」クラインは笑いながら話した。

 「実はほかにも肩書きがある。」ダンは引き出しから何か書かれた紙を取り出した。

 紙には市政府と警察庁の公印が捺印され、傍には2行の文字が書かれていた。

 「ルーン王国アフワ郡警察庁特別行動部第7班。」

 「第1班から第4班は、要員保護班や重要場所保護班など、治安の維持を担う通常の警察だ。第5班以降は、郡内の各市で起こった怪奇事件を扱う。我々第7班はティンゲン市の女神の信徒に関する事件を担当している。複数の信仰者にかかわる場合は、地域ごとに区分けされ、我々の場合、北区、西区、金梧桐区を主に管轄している。」

 ダンは大まかに説明した。「嵐の主教会『罰を与えし者』に属する第6班は埠頭区、東区、南区を担当し、大学区と郊外は『機械の心』に属する第5班の管轄だ。」

 「なるほど。」クラインは何を質問していいのかわからず、笑いながら尋ねた。「『ブラックソーン・セキュリティ社』の看板を見た人が本当に依頼してきたら、どうするんですか?」

 「もちろん、引き受けるさ。日常の業務に影響なければ問題はない。」ダンは落ち着いた口調で冗談交じりに答えた。「稼ぎがあれば追加の手当てになるから、みんな喜んで引き受ける。それに、迷子の子猫探しなんかの些細な案件なら、私立探偵がいるからな。」

 「夜を統べる者は全部で何人のメンバーがいるんですか?」クラインはその話題に絡めて尋ねた。

 「怪奇事件自体それほど頻繁に起こるわけではないし、超越者となると数はかなり限られている。ティンゲン市全体でも夜を統べる者の正式メンバーは私を含めて6人。事務員も君を入れて6人だ。」ダンは落ち着いた口調で答えた。

 クラインは頷きながら、最も気になっていたことを尋ねた。

 「リーダー、前に言っていた超越者の暴走っていうのはなんですか?どうして暴走するんですか?」

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